🌱はじめに
イエス様がご自身の十字架の道を見据えながら、それでも弟子たち一人ひとりの心に目を留め、静かに語りかけられた時期があります。マルコの福音書9章とマタイの福音書18章は、そのような大切な教えが詰まった場面です。
ここには、「誰が一番偉いのか」という議論に対してイエス様が語られたへりくだりの教え、小さな者への配慮とつまずきへの警告、そして信仰共同体の中での赦し合いのあり方が描かれています。
私たちもまた、日常の中で心が乱れたり、人との関係にすれ違いが生じたりすることがあります。そのような時に、イエス様の静かな教えに耳を傾けるとき、心の奥にある価値観がゆっくりと整えられていくことに気づかされます。
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📝この記事を読むとわかること
- マルコ9章33-50節とマタイ18章15-35節の要点
- イエス様が教えられた「真の偉大さ」と「無限の赦し」について
- 弟子たちに向けた訓練とその意義
- 原画に込められた祈りと想い
🖼️ 原画:『この子どもを受け入れる者は』(らけるま作)

🪷やさしい解説
イエス様が弟子たちに語られた言葉は、いつも心に届くやさしさと、人生を変える力強さをあわせ持っています。マルコ9章とマタイ18章では、「偉さ」をめぐる弟子たちの思いに寄り添いながら、へりくだり、仕える心、そして赦す心の大切さを示されました。ここから、私たちの日常にも生きる知恵と恵みを受け取ってまいりましょう。
📖 謙遜と奉仕:真の偉大さ| マルコ9:33-37
(聖句)
彼らはカペナウムにきた。家にはいってから、イエスは彼らに、「あなたがたは途中で何を論じ合っていたのか」と尋ねられた。彼らは黙っていた。それは、「だれがいちばん偉いだろう」と、途中で互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、彼らに言われた、「だれでもかしらになりたいと思うなら、その人は、みなのしんがりとなり、みなにつかえる者となりなさい」。そして、幼な子をひとり、彼らの真中に立たせ、それを抱きあげて言われた、「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のために受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。また、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるばかりでなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
(解説) イエス様は、弟子たちの「誰が一番偉いか」という議論に対して、幼子を抱いて「一番小さくなる者こそ偉い」と教えられました。地位や名誉ではなく、へりくだりと奉仕の心が神の国での価値観であることを、弟子たちに深く教えられたのです。
📖 排他性の否定と寛容なまなざし|マルコ9:38-41
(聖句)
ヨハネがイエスに言った、「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒について行かないので、やめさせました」。イエスは言われた、「やめさせないがよい。わたしの名によって力あるわざを行う者が、すぐにわたしをそしることはないであろう。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。あなたがたがキリストのものであるというので、水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いを失うことはない」。
(解説) 弟子たちは、自分たちの仲間ではない者をやめさせようとしましたが、イエス様は、御名によってなされる善を広く受け入れるよう教えました。神の働きは、人間の枠組みを超えて広がっているのです。小さな親切でも、主の御前では尊いのだと励まされます。
📖 つまずきと罪への断固たる姿勢|マルコ9:42-48
(聖句)
わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて、海に投げ込まれる方がましである。もし、あなたの片手があなたをつまずかせたら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっていのちに入る方がましである。もし、あなたの片足があなたをつまずかせたら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていて地獄に投げ込まれるよりは、片足になっていのちにはいる方がましである。もし、あなたの片目があなたをつまずかせたら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていて地獄に投げ込まれるよりは、片目になって神の国にはいる方がましである。地獄では、彼らのうじは尽きることがなく、火は消えることがない。
(解説) 信仰の小さき者をつまずかせることの重さ、そして自らの罪に対する厳粛な姿勢を、イエス様は強い語調で示されました。罪と向き合い、それを断ち切ることは痛みを伴うかもしれませんが、それによっていのちの道へと進むことができるのです。
📖 地の塩としての責任|マルコ9:49-50
(聖句)
すべての人は火で塩づけにされるであろう。塩は良いものだ。しかし、塩がもしききめがなくなったとすれば、何によってそれに味をつけることができようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に平和に過ごしなさい。
(解説) 塩は清め、味を与え、保存するもの。私たちは、信仰をもって世の中に善い影響を与える存在です。その塩気を失わず、平和を保ち続けるようにと、イエス様は語られました。

📖 兄弟が罪を犯した場合の対処法| マタイ18:15-20
(聖句)
もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、ふたりだけの所で、彼をいさめなさい。もし聞きいれたら、あなたは自分の兄弟を得たことになる。もし聞きいれないなら、ほかにひとりふたりを連れて行きなさい。それは、すべての事が、ふたりまたは三人の証人の口によって、確かなものとされるためである。もし彼らの言うことさえ聞きいれないなら、教会に申し出なさい。教会の言うことさえも聞きいれないなら、彼を異邦人または取税人のように見なしなさい。
よく言っておくが、あなたがたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でも解かれるであろう。
また、よく言っておくが、あなたがたのうちふたりが、どんな願いごとについても、心を一つにして地上で祈るなら、天にいますわたしの父は、それをかなえてくださるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。
(解説) イエス様は、罪を犯した兄弟にどう向き合うべきか、段階的な方法を教えてくださいました。その目的は罰することではなく、悔い改めと回復を目指す愛のプロセスです。二人きりでの対話から始まり、必要なら証人を伴い、最後は教会の助けを求めます。すべての場面において、主の臨在と導きがあることを忘れてはなりません。
📖 赦しの限界を超えて|マタイ18:21-22
(聖句)
そのとき、ペテロがイエスに近寄って言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるすべきでしょうか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまで、ゆるしなさい』。
(解説) ペテロは、赦しに「回数の限界」があると考えていましたが、イエス様はその思いを超えて、無限の赦しを求められました。赦しは計算するものではなく、神の恵みに応える心の姿勢なのです。
📖 無慈悲な僕のたとえ|マタイ18:23-35
(聖句)
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものである。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。彼は返済することができなかったので、その主人は、彼自身と妻子および持ち物全部を売って返済するように命じた。それで、この僕はひれ伏して拝し、『どうか、御猶予ください。そうすれば、全部お返しいたします』と言った。主人はこの僕をかわいそうに思い、彼を赦して、その負債を免除してやった。
ところが、この僕が出て行くと、自分に百デナリの負債のある同僚に出会い、彼をつかまえて、のどをしめつけ、『借金を返せ』と言った。その同僚はひれ伏して、『どうか、御猶予ください。そうすれば、お返しします』と頼んだ。しかし、彼は承知せず、行って、その人を牢に入れ、返済するまで拘留した。
同僚たちは、この出来事を見て非常に悲しみ、行ってその一部始終を主人に報告した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕よ、あなたがわたしに願ったから、あの負債を全部赦してやったのだ。わたしがあなたをあわれんでやったように、あなたもあなたの同僚をあわれんでやるべきではなかったか』。そして、主人は怒って、負債を全部返すまで彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたも、もしそれぞれ兄弟を心から赦さないならば、天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるであろう。
(解説) このたとえ話は、神が私たちに与えてくださった赦しの大きさと、それに応える私たちの心のあり方を問うものです。一万タラントという天文学的な負債を赦された者が、百デナリの負債を赦せないのは、神の恵みを真に理解していない証です。イエス様は、このたとえを通して、赦しを受けた者として、他者をも赦す者となるよう私たちを招いておられます。
🌼こどもたちへのメッセージ
イエスさまは、ちいさなこどもをだきしめながら、「この子のような人が、一ばんたいせつなんだよ」とおしえてくれました。えらくなることより、みんなをたいせつにする心が、イエスさまののぞんでいることなんだね。
🎚️ 信仰のことば
「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のために受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」(マルコ9:37)
🖼 原画アイキャッチ情報
【代替テキスト】
イエスが幼い子どもを腕に抱き、周囲にひざまずく弟子たちに教えている様子。弟子たちは静かに耳を傾けている。
【キャプション】
「このような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」――イエスは幼子を真ん中に立たせ、弟子たちにへりくだる心と受け入れる愛について語られました(マルコ9:33–50)。
📌聖句には、パブリックドメイン口語訳が引用されています。
https://j-bible.jimdofree.com/
🎨 らけるまの創作メモ|こどもをだきしめるイエスさまを描こうとした日
この絵を描いていたとき、ただ「えらい人」ではなく、ちいさな存在を両手で大事に包みこむイエスさまのまなざしに心を向けていました。子どもを受け入れるとは、その人のいのちをまるごと信じて受け止めること。弟子たちがこの光景を見たとき、きっと心の奥にやさしい種がまかれたんじゃないかな、と思います。
📝この記事のまとめ
- イエス様は、弟子たちの「誰が偉いか」という議論に、へりくだりと仕える心で答えられた
- 小さな者を受け入れることは、神を受け入れることにつながる
- 他者を排除するのではなく、寛容と善意をもって接するようにと教えられた
- 罪に対しては断固とした態度を求められた
- 教会の中での罪と赦しに関する教えが、共同体の土台として与えられている
🕊️ 結びの祈り
主イエスさま、あなたが弟子たちに向けて静かに語られた言葉は、いまも私たちの心に届いています。
「偉くなるよりも、仕える者になりなさい」との教えを、どうか私たちの日々の歩みに生かすことができますように。
赦しにくい相手がいるとき、あなたの赦しの大きさを思い出させてください。
小さな者を受け入れる心、平和をつくる心を、私たちに注いでください。
🔔 次回の予告
次回は、「ガリラヤにとどまる」ヨハネ7・1-9――主の時を待ち望む信仰の姿についてご一緒に味わってまいりましょう。
📖この記事に関連する御言葉をもっと深く
イエスさまの御業やことばを、心静かにたどってみたい方へ。
テーマごとにまとめたカテゴリをご案内します。
きっと、あなたの今の歩みに寄り添う光が見つかりますように――
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