イエスがガリラヤにとどまられたとき|ヨハネ7章1–9節より

イエスがガリラヤにとどまり、兄弟に語りかけている場面。イエスは青い衣をまとい、前方には色とりどりの服を着た人々が静かに耳を傾けている。背景はやわらかなオフホワイト。 応答する人々|主に従う人生の始まり

🌱 はじめに

ヨハネの福音書7章1-9節は、イエスがユダヤで公に活動することを避け、ガリラヤに留まっていた時期と、過越の祭りではなく仮庵の祭りに向かおうとするイエスに対して、イエスの肉親の兄弟たちが不信仰な態度を取った出来事を描いています。この箇所は、イエスの神的な計画と「時」、そして不信仰と理解の欠如というテーマを浮き彫りにしています。


📝 この記事を読むとわかること

  • ヨハネ7章1〜9節のやさしい解説
  • イエスが「時」を大切にされた理由
  • 子どもにも伝えやすい聖書のメッセージ
  • 原画に込めた思いと制作の背景

🖼️ 原画:『ガリラヤにとどまる』(らけるま作)

イエスと兄弟たちの対話。イエスはガリラヤにとどまり、祭りに上ることを拒まれる様子が描かれている。複数の人物が順に並び、イエスの言葉に耳を傾けている。
祭りに上るよう促す兄弟たちに、イエスは『わたしの時はまだ来ていない』と応じられました。神のご計画に静かに従うイエスの姿が印象的な場面です。

箇所の概要

ヨハネの福音書におけるこの時点(7章)は、イエスの公生涯の後半、ガリラヤ伝道の後期に差し掛かっています。直前の6章では、イエスが5千人を養う奇跡を行い、「命のパン」について教えましたが、その結果、多くの弟子たちがイエスを去っていきました。

ヨハネ6章からこの7章までの間には、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されている重要な出来事が起こっています。最終的なエルサレムでの出来事へと向かう数ヶ月の期間です。この期間に、イエスは弟子たちに受難と復活を再三予告したり、山上で変容したり、小さき者への配慮や赦しについて教えたりしました。

しかし、ヨハネ7章では再び、イエスがガリラヤ地方に留まり、ユダヤ(特にエルサレム)での公な活動を避けていた状況が描かれます。これは、エルサレムのユダヤの指導者層がイエスを殺そうと企てていたためです。

やがてユダヤの重要な祭りである仮庵の祭りが近づくと、イエスの肉親の兄弟たちがイエスに対し、もっと公にその力を示し、祭りに参加するよう勧めます。しかし、彼らは真の意味でイエスを信じていませんでした。イエスは、まだ自分の「時」が来ていないとして、一旦は祭りの公な参加を断り、その後、秘密裏にユダヤへ向かうことになります(10節以降)。

この場面は、イエスの行動が神の定められた計画と「時」に厳密に従っていること、そして、その神性と使命が最も身近な者たちにも理解されていなかったという現実を浮き彫りにしています。


他の福音書に記されたこの間の出来事

ヨハネの福音書はイエス様の生涯を独自の視点で描いていますが、ヨハネ6章と7章の間には、他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記された重要な出来事が数多く起こっています。

例えば、イエス様が弟子たちに再びご自身の受難と復活を予告されたり、ペテロが信仰を告白したり、山上でイエス様が変容されたりしたのもこの期間です。

また、私たちがいかに謙遜であるべきか、そして兄弟が罪を犯した際にどのように対処し、赦すべきかといった大切な教えも、この頃に語られました。

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ヨハネの福音書は、そのような出来事を経て、いよいよイエス様がエルサレムでの最終的な受難へと向かう準備をされている様子を、仮庵の祭りの文脈で描いているのです。


各節の解説

※この聖句はパブリックドメインの口語訳聖書を引用しています。
https://j-bible.jimdofree.com/

1節:ユダヤでの活動の回避

【聖句引用(口語訳)】

そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤを巡回することを好まれなかった。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとねらっていたからである。

  • 「ガリラヤを巡回しておられた」: イエスはユダヤ地方(特にエルサレム)での活動を控え、ガリラヤに留まっていました。これは、ユダヤの指導者層がイエスを敵視し、殺害を企てていたためです。
  • 「ユダヤを巡回することを好まれなかった」: イエスが恐れたのではなく、神の定めた「時」(カイロス)がまだ来ていなかったため、無用な対立を避けていました。イエスは、ご自身の死と復活という神の計画を成就するための最も適切な時期を待っていたのです。

2-5節:兄弟たちの不信仰

【聖句引用(口語訳)】

さて、ユダヤ人のかりいおの祭が近づいていた。そこでイエスの兄弟たちは、イエスに言った、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしわざを弟子たちに見せてやって下さい。公の場に出ることを願う者が、隠れてはしないでしょう。もし、あなたがこのようなことをするのなら、自分を世にあらわしなさい」。イエスの兄弟たちでさえもイエスを信じていなかったのである。

  • 「かりいおの祭」: ユダヤの三大祭りの一つで、秋にエルサレムで祝われます。多くの巡礼者が集まる重要な祭りでした。
  • イエスの兄弟たち: ここで言われる「兄弟たち」は、イエスの肉親の兄弟たち(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダなど、マタイ13:55、マルコ6:3参照)を指します。彼らは当初、イエスのメシアとしての主張を信じていませんでした。
  • 兄弟たちの動機: 彼らはイエスに対し、もっと大胆にエルサレムの祭りで奇跡を行い、メシアとしての権威を公に示すべきだと勧めます。彼らの言葉は、イエスの能力を認めつつも、自分の名誉や栄光を求める世俗的な動機をイエスにも見ているかのようです。あるいは、イエスがメシアであるなら、隠れていないで、もっとはっきりとその力を示すべきだという疑念と皮肉が込められていました。
  • 「イエスの兄弟たちでさえもイエスを信じていなかった」: この一文は非常に重要です。たとえ肉親であっても、イエスが神の子であり救い主であるという真の信仰を持っていなかったことを明確に示しています。彼らはイエスを単なる並外れた能力を持つ人間と見ていたか、あるいはその奇妙な行動を理解できずにいたのかもしれません。

6-8節:イエスの「時」と世との関係

【聖句引用(口語訳)】

イエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつもきている。世はあなたがたを憎むことはないが、わたしを憎むのである。それは、わたしが世の行いが悪いことをあかしするからである。あなたがたは祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時がまだ満ちていないからである」。

  • 「わたしの時はまだきていない」: ヨハネの福音書全体で重要なテーマである「イエスの時」です。これは、イエスが十字架にかかり、死から復活するという、神によって定められた救いの計画の成就の時を指します。イエスは、神の計画に忠実に従い、その「時」が来るまで無闇に危険を冒したり、公に自己を顕示したりすることはしませんでした。
  • 「あなたがたの時はいつもきている」: 世はイエスの兄弟たち(不信仰な人々)を憎むことはありません。なぜなら、彼らは世と同じ価値観で生きているからです。
  • 「世はあなたがたを憎むことはないが、わたしを憎むのである」: イエスは、ご自身が世の罪と悪を指摘し、神の義を明らかにすることから、世はイエスを憎むと述べます。これは、信仰と不信仰、神の国と世の国との根本的な対立を明確に示しています。
  • 「わたしはこの祭には行かない」: イエスは一旦、祭りに参加することを明確に拒否します。これは、兄弟たちの世俗的な動機に乗じて公の場に出ることを避け、神の定めた「時」に焦点を当てるためです。

9節:秘密裏のユダヤへの移動

【聖句引用(口語訳)】

こう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。

  • 「こう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた」: 表面上はガリラヤに留まることを選択しました。しかし、この後(10節)、イエスは**「公然とではなく、ひそかに」**祭りのためにユダヤへ向かいます。これは、イエスが神の定めた計画に従って行動していたことを示しており、同時に不必要な注目や対立を避けつつ、最終的には神の御心に従うというイエスの知恵と従順さを表しています。

この箇所の神学的意味

  1. イエスの主権的な「時」: イエスは、ご自身の行動を神の定められた「時」(カイロス)に厳密に従わせました。これは、イエスが単なる人間ではなく、神の計画を遂行する神の子であることを強調します。
  2. 不信仰の性質: 肉親の兄弟でさえイエスを信じず、世俗的な成功や名声を求めるような助言を与えました。これは、人々がどれほどイエスに近い位置にいても、真の信仰がなければ、イエスの使命や神性を理解できないことを示しています。彼らはイエスを自分たちの都合の良いメシア像に当てはめようとしました。
  3. 世との対立: イエスが世の悪を証しする者であるため、世はイエスを憎みます。真の信仰は、世の価値観と常に一致するとは限らず、時に対立を伴うことを示唆しています。
  4. 知恵と従順: イエスは、不必要な対立を避けつつ、最終的には神の御心に従うという知恵と従順さを示しました。

ヨハネ7章1-9節は、イエスがご自身の使命を遂行する上で直面した誤解や不信仰の現実を浮き彫りにしながらも、彼が神の計画に忠実であり続けたことを明確に描いています。

この場面は、神の時を信じて静かに歩まれるイエスの姿を通して、「急がなくていい」「世の価値観に合わせなくてもいい」と、私たちにも語りかけてくれているようです。


🌼 こどもたちへのメッセージ

イエスさまは、みんなが「行こうよ」と言っても、自分の心と神さまのことばを大切にされました。
にんきものになりたくても、自分をだいじにして、しずかにまつことも、神さまがよろこばれることなんだよ。


🎚️ 信仰のことば

「わたしの時はまだきていない。」
――ヨハネの福音書7章6節より

イエスのこの言葉に、神の時を信じて待つ信仰の強さを感じます。焦らず、急がず、神の御心を求める姿勢を、私たちも見習いたいですね。


🖼 原画アイキャッチ情報

【代替テキスト】
イエスと兄弟たちの対話。イエスはガリラヤにとどまり、祭りに上ることを拒まれる様子が描かれている。複数の人物が順に並び、イエスの言葉に耳を傾けている。

【キャプション】
祭りに上るよう促す兄弟たちに、イエスは「わたしの時はまだ来ていない」と応じられました。神のご計画に静かに従うイエスの姿が印象的な場面です。

📌原画には、パブリックドメイン口語訳が含まれています。
https://j-bible.jimdofree.com/


🎨 らけるまの創作メモ|「とどまる」を描こうとした日

この場面に描かれているのは「動かない強さ」。
兄弟たちにすすめられても、イエスはご自分の道を見失わず、静かに「いまは行かない」と言われました。
私はこの姿に、ふわりと根を張るような信頼を感じました。
ガリラヤの青い衣をまとったイエスを、あえて群衆から少し離して描いたのは、
「孤独ではなく、神と共にある静けさ」を感じてほしかったからです。


📝 この記事のまとめ

  • ヨハネ7章1〜9節は、イエスが「神の時」を待たれた場面
  • 兄弟たちのすすめを退け、静かに従順に歩まれた
  • せかされる世の中でも、「とどまる」ことに意味がある
  • 原画は、その静けさと信頼の美しさを表現している

🕊️ 結びの祈り

主よ、
あなたが静かにとどまり、父なる神の時を待たれたように、
私たちもまた、自分の道を急ぐことなく、あなたの導きを待てますように。
誰かの期待や声にゆらぐときも、
あなたの平安が心を守ってくれますように。
読んでくださったすべての方が、
「神とともにある静けさ」を感じて歩めますように。
アーメン。


🔔 次回の予告

「ユダヤへ行く決心、サマリヤ人がイエスを拒む」ルカ9・51-56
――イエスの旅が、新たな局面へと進んでいきます。


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