🌱 はじめに
エルサレムへ向かう道の途中、イエスとその弟子たちは、サマリヤの村で歓迎されませんでした。弟子たちは怒りに駆られて火を呼ぼうとしましたが、イエスは優しく制し、別の道を選ばれました。このできごとは、私たちに「怒り」ではなく「愛」をもって歩む姿勢を教えてくれます。今回は、その場面を丁寧に読み解きながら、わたしたちの信仰にもつながるメッセージを探っていきましょう。
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前回の記事「イエスがガリラヤにとどまられたとき」はこちらからご覧いただけます
📝 この記事を読むとわかること
- ルカ9:51‑56 に記された物語の流れと背景
- 弟子たちの反応と、イエスの対応から学べること
- 子どもたちにも伝えたい優しさと信仰の視点
- 解説と祈りを通して、日々の歩みに生かすヒント
🖼️ 原画:『ユダヤへ行く決心』(らけるま作)

ルカの福音書9章51-56節は、イエスの公生涯における非常に重要な転換点を描いています。イエスがエルサレムへの決意を固め、その旅路で起こったサマリヤ人との受け入れ拒否、そしてそれに対する弟子たちの誤った反応が記されています。この箇所は、イエスの決意、弟子たちの未熟さ、そしてイエスの使命の本質(裁きではなく救い)というテーマを浮き彫りにしています。
箇所の概要
この箇所の直前、ルカの福音書9章の終わり(9:43b-50)では、イエスが三度目の受難予告を行い、弟子たちに謙遜と寛容さを教えました(マルコ9:30-41、マタイ18:1-9と並行)。そして、51節から始まるこの箇所は、ルカ福音書全体の約半分を占める「エルサレムへの旅路」(9:51-19:27)の始まりを告げる、極めて重要な導入部となっています。
イエスは、ご自身が十字架にかかるためにエルサレムへ向かうことを固く決意します。その旅路で、サマリヤのある村を通ろうとしましたが、イエスがエルサレムへ向かっていたため、サマリヤ人たちはイエスを拒絶します。これを見た弟子ヤコブとヨハネは、怒って天からの火で彼らを滅ぼすことを提案しますが、イエスは彼らを叱責し、ご自身の使命は人々を救うことであり、滅ぼすことではないと示します。
各節の解説
※この聖句はパブリックドメインの口語訳聖書を引用しています。
https://j-bible.jimdofree.com/
51節:エルサレムへの決意
【聖句引用(口語訳)】
さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、
- 「昇天の時期」: ここでの「昇天」は、単に天に上ることを指すだけでなく、イエスが十字架にかかり、死から復活し、そして天に上げられるという、神の定めた救いの計画全体を指しています。これは、イエスが地上での使命の最終段階に入ったことを示唆しています。
- 「エルサレムへ向かう決意を固められた」: 原文は「顔をエルサレムに向けた」という強い表現で、イエスの揺るぎない覚悟と意志を示しています。この時から、イエスの宣教の焦点はエルサレム、すなわち十字架へと向けられます。ルカ福音書の中でこの一節は、イエスのエルサレムへの旅路が始まることを示す、文学的かつ神学的な転換点です。
52節:サマリヤの村への使者
【聖句引用(口語訳)】
自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、
- 「み使い」: ここでは文字通りの天使ではなく、イエスの使者として弟子たちを指すと考えられます。彼らはイエスと弟子たちのために宿や食事の準備をするために、先だって村に入りました。
- サマリヤ人の村: ユダヤとガリラヤの間に位置するサマリヤ地方は、ユダヤ人から異教徒と見なされ、長年の民族的・宗教的対立がありました。ユダヤ人はサマリヤ人との接触を避け、彼らの地を通ることを嫌っていました。しかしイエスは、あえてサマリヤ地方を通ることを選びました。
53節:サマリヤ人による拒否
【聖句引用(口語訳)】
村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
- 「イエスがエルサレムへ行こうとしておられたので」: サマリヤ人は、エルサレムの神殿を至上とするユダヤ教徒を敵視し、自分たちの聖地であるゲリジム山に崇拝の中心がありました。イエスがエルサレムに向かっていると知ったサマリヤ人たちは、イエスがユダヤ教徒側の人であるとみなし、拒絶しました。これは、当時の民族的対立と宗教的偏見の現実を反映しています。
54節:弟子たちの誤った反応
【聖句引用(口語訳)】
弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。
- 「彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」: ヤコブとヨハネは、イエスの名誉が傷つけられたと感じ、旧約聖書の預言者エリヤが天からの火を降らせて敵を滅ぼした例(列王下1章)にならって、報復と裁きを提案します。彼らは「ボアネルゲ、すなわち、雷の子」という異名を持つほど、短気で情熱的な性格でした(マルコ3:17)。彼らはまだ、イエスの愛と憐れみの使命を十分に理解していませんでした。
55-56節:イエスによる叱責と使命の明確化
【聖句引用(口語訳)】
55節:イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。 56節:そして一同はほかの村へ行った。
- 「おしかりになった」: イエスは弟子たちの怒りに満ちた報復の提案を強く非難します。これは、彼らの内にある報復の精神が、イエスの使命とは相容れないものであることを示しています。ここには、「あなたがたは、自分がどんな霊の者であるかを知らない。人の子は、人の命を滅ぼすためではなく、救うためにきたのである」という、いくつかの写本には見られるが、有力な写本には含まれない句がありませんが、イエスの叱責の意図は弟子たちの内にある裁きの心を正すことにあります。
- 「そして一同はほかの村へ行った」: イエスは争いを避け、次の村へと進みます。これは、不必要な対立を深めるよりも、ご自身の使命を果たすことを優先する姿勢を示しています。
この箇所の神学的意味
- イエスの決意と神の計画: イエスがエルサレムへ向かう決意を固めたことは、神の救済計画がその最終段階に入ったことを示し、イエスの従順さと使命への専念を強調します。
- 弟子たちの未熟さ: ヤコブとヨハネの反応は、弟子たちがまだイエスの教え(愛、赦し、奉仕)を十分に理解しておらず、世俗的な考え方や報復の精神から抜け出せていなかったことを示しています。彼らはイエスの使命を力による支配や裁きと誤解していました。
- イエスの使命の本質: イエスは明確に、ご自身が**「人の命を滅ぼすためではなく、救うためにきた」**ことを宣言しました。これは、イエスが来られた目的が、罪人を愛し、救いへと導くことであることを強調する、ルカ福音書全体に通じる重要なテーマです。
- 民族的偏見を超えた愛: イエスはサマリヤ人の拒絶に対し、報復ではなく忍耐と別の道を選ぶことで、民族的対立を超えた神の愛を示唆しています(後にサマリヤ人のよい人、サマリヤ人の感謝する癒された者などのたとえを通して、その愛が具体的に示されます)。
ルカ9章51-56節は、イエスの十字架への道のりがいかに困難であり、またその道こそが救いの道であることを示唆するとともに、イエスに従う者が持つべき真の精神と、神の愛の使命を深く教えているのです。
🪷 やさしい解説
この場面をやさしく整理すると、次のような流れと気づきが見えてきます。
出来事 | 内容 | 気づき |
---|---|---|
決意と出発 | イエスは、エルサレムに向かう決心を固め、先に使者を送る | 使命を意識して前もって備えをされるイエスの姿 |
拒絶の場面 | サマリヤ人の村は、イエスの来訪を歓迎しなかった | 人と人との隔たり、偏見、拒絶 |
弟子の反応 | ヤコブとヨハネは、怒りで「火を呼ぼう」と言う | 怒りや報復を求めたくなる私たちの心 |
イエスの対応 | イエスは振り返って彼らを諭す | 愛と憐れみによる応答、暴力ではない道を示される |
別の道へ | 一行はその村を去り、他の村へ向かう | 拒絶に対しても、別の道を選ぶ柔軟さと信仰の歩み |
この話は、ただ怒りを抑えることを説くだけではありません。イエスは、拒絶されても無理に力で押し通すのではなく、愛と謙遜をもって道を選ばれました。その選択は、弟子たちにとっても衝撃だったでしょう。しかしそれこそが、十字架への歩みを始める道の一端でもあったのです。
また、サマリヤ人とユダヤ人の間には歴史的・宗教的な溝があり、互いの偏見が強かったという背景もあります。その中でイエスは、壁を越えようとなさった方でした。
🌼 こどもたちへのメッセージ
みんな、こんなことはないかな?
自分が行きたかった場所で、誰かに「来ないで」と言われたり、歓迎されなかったり。そんなとき、悲しくなるよね。
でもこのお話でイエス様は、「怒って仕返しをしよう」という言葉を止められた。そして、別の道を歩まれた。
神様は、力で抑える道じゃなくて、優しさと愛で歩む道を教えてくれているんだよ。たとえ拒まれても、優しい言葉を選んだり、別の道に行ったりできるように祈ろうね。
🎚️ 信仰のことば
「破壊ではなく、癒しを求める者でありなさい」
― 拒絶の中でも、愛の道を選ばれた主を見つめて
🖼 原画アイキャッチ情報
【代替テキスト】
「エルサレムへ向かう途上、サマリヤの村で歓迎されず、弟子たちが怒りの声を上げるなか、イエスが静かに諭す様子。右側には旅のルートを示す地図も描かれている。」
【キャプション】
「主よ、火を呼びましょうか?――怒りの声を抑え、愛を選ばれたイエス。サマリヤで拒まれたその道の一幕(ルカ9:51‑56)」
📌 原画には、パブリックドメイン口語訳が含まれています。
🎨 らけるまの創作メモ|拒まれた道を描こうとした日
この物語を描こうとしたとき、私は「拒絶」という言葉に重みを感じました。人から拒まれる、門前払いされる痛み。けれど、その先にある「選び直す道」「別の方向」にこそ希望があることを、イエスの歩みに見出したかったのです。
絵の中で、弟子たちの表情とイエスの静かな佇まいを対比することで、怒りと憐れみ、衝動と落ち着きのはざまを感じてほしいと思いました。地図を添えたのは、「旅」という背景を忘れないため。信仰もまた、歩みの旅だからです。
この原画が、誰かの心に「もう一歩、優しい道を選ぼう」と導くきっかけになるよう願っています。
📝 この記事のまとめ
- ルカ9:51‑56 は、エルサレムへの旅とサマリヤでの拒絶を描く場面。
- 弟子たちは怒りをもって「火を呼ぼう」と言ったが、イエスはその反応を止められた
- 拒絶の中でも、力ではなく愛を選ばれたイエスの姿が示されている
- 子どもたちにも、「優しさを選ぶ道」があることを伝えたい
- 創作の意図として、対比と旅路を通して信仰の歩みを感じてもらいたかった
🕊️ 結びの祈り
愛なるお方、あなたは拒絶の中でもなお、優しさを選び、愛をもって歩まれました。どうか私たちの心を柔らかくしてください。傷ついたとき、怒りに駆られるとき、暴力を求めたくなるとき、あなたの静かな声を聞かせてください。
「破壊ではなく、癒しを求める道」を私たちの歩みに与えてください。拒まれても、別の道を進む勇気をどうかお与えください。
この原画を訪れたすべての方に、あなたの慰めと導きが豊かにありますように。
主イエス・キリストのお名前によって。アーメン。
🔔 次回の予告
次回は、「イエスに従うことについて」ルカ9・57‑62
イエスが「私に従いなさい」と語られた言葉を通して、従うことの意味を探っていきます。
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