🌱はじめに
静かな荒野に、ひとり導かれるイエス。
それは、御霊による導きでした。
神の子として宣言を受けたそのすぐ後に、イエスは試みられます。
悪魔は、「神の子」であることを証明するよう迫り、
より手っ取り早く、十字架を通らない救いの道を提案しました。
しかし、イエスはみことばによって、すべての誘惑を退けられたのです。
この出来事は、私たちが信仰の旅の中で経験する誘惑と重なる、深い真理を語っています。
📝この記事を読むとわかること
- イエスが荒野で受けた3つの誘惑の意味
- 悪魔の策略とイエスの応答
- メシアとしての歩みにおける試練の重要性
- 私たちの信仰生活における「荒野」の意味
🖼️ 原画:『荒野での誘惑』(らけるま作)

🪷やさしい解説
荒野での誘惑――それは、ただの試練ではなく、神の子であるイエスが人として、そして救い主として歩まれる道を示す重要な出来事でした。
イエスが経験された誘惑は、3つの意味を持っています。
① イスラエルの民の代表として。かつて荒野でつまずいた彼らに代わって、イエスは従順を貫かれました。
② 人類全体の代表として。すべての人が直面する試練を、イエスは身をもって経験されました。
③ メシアとして。救い主として、十字架の前にあってどのような道を選ばれたか――それがこの誘惑に表れています。
1つ目の誘惑は「パン」の誘惑。
空腹のイエスに対し、悪魔は石をパンに変えよと迫ります。
これは、物質的な満足によって人を救えるのではという、安易な道の誘惑です。
イエスは申命記8章3節を引用して退けられました。
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記8・3)
2つ目は「奇跡による証明」。
神殿の頂に立たせ、神が守ると書いてあるではないか――と、悪魔は詩篇を引用します。
しかし、イエスは神を試みてはならない(申命記6章16節)と応じられます。
あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6・16)
3つ目は「地上の栄光」。
悪魔はすべての国々と栄華を見せ、それらを与えるから礼拝せよと迫ります。
イエスは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と(申命記6章13節)、きっぱりと拒まれました。
あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。(申命記6・13)
どの誘惑にも、イエスはみことばによって立ち向かわれました。
その姿は、私たちがどのように誘惑を乗り越えるかを教えてくれます。
🖼 原画アイキャッチ情報
【代替テキスト】
イエスが荒野で悪魔に試みられる場面。赤いマントの悪魔と対峙するイエス、最後には天使たちに囲まれている。
【キャプション】
「荒野での誘惑」―静けさの中で試練に打ち勝つイエスの姿
40日間の断食の後、悪魔の誘惑に屈せず、みことばで応答されるイエス。その信仰の強さと従順さを、静かに描いた一枚です。
📌原画と聖句には、パブリックドメイン口語訳入っています。
🎨らけるまの創作メモ|「声なき声」を描こうとした日
この絵を描きながら、心に浮かんでいたのは「荒野の静けさ」です。
人が誰とも会わず、神の声だけを聞こうとするとき、
そこに悪魔がささやくことがある。
でも、そのときこそ、イエスがどう歩まれたかを思い出せたら――。
ひとつひとつの誘惑に、神のことばで応答されたその姿を、
小さな祈りとともに描きました。
📝この記事のまとめ
- イエスは御霊に導かれて荒野に行き、悪魔に試みられた
- 悪魔はイエスに、十字架を回避した救いの道を提案した
- イエスは申命記の言葉を用いて、3つの誘惑を退けられた
- 荒野での試練は、イエスが真の神の子であることの証しとなった
- 私たちも信仰の歩みの中で、荒野を通ることがある
🕊️結びの祈り
主よ、
私たちもまた、人生の荒野に立たされることがあります。
目に見えるもので心を満たそうとしたり、
早く結果を出したくなったり、
あなたを試したくなる時もあります。
でも、イエスさまがそうされたように、
あなたのことばを思い出させてください。
真理によって歩むことができますように。
誘惑のただなかで、
あなたがともにいてくださるという確信を、
私たちの心に植えつけてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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