信じない町を前に、なおも招かれるイエスさまの声

中央にイエス・キリストが描かれ、穏やかなまなざしで人々を見つめている。周囲には弟子たちが立ち、イエスの言葉を見守るように佇んでいる。前景には背中を向けた群衆が描かれ、信じることをためらう町の人々を象徴している。画像の左上に「不信仰なガリラヤの町々を責める」のタイトルが大きく表示され、イエスの厳しさとやさしさの交差する場面を伝えている。 赦しと解放|罪と重荷の自由

🌱はじめに

バプテスマのヨハネが牢に捕らえられたあとのこと。
イエスさまは、人々のかたくなな心に向き合いながら、それでも招きの言葉を語られました。
信じない町を前に、厳しい言葉をもって訴えたその後で、父なる神への賛美と、すべての疲れた人への深い慰めが続きます。
そのお姿に、私たちは何を感じるでしょうか。

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📝この記事を読むとわかること

  • マタイ11章の流れと文脈
  • イエスが町々を非難された理由
  • 「わたしのところに来なさい」の意味
  • イラストに込められたメッセージと創作意図

🖼️ 原画:『わたしのところに来なさい』(らけるま作)

人々の後ろ姿が描かれた群衆の前に、イエス・キリストが真剣な表情で群衆の前に立ってる。背景には弟子たちも描かれ、イエスの言葉に静かに耳を傾けている様子。場面は、ヨハネの弟子がイエスのもとを訪ねた後、信じようとしない町々を非難し、父なる神をほめたたえ、「わたしのところに来なさい」と語られる場面を象徴している。
信じない町々を嘆きつつも、すべての重荷を負う者に向けて――イエスは今日も、やさしく語りかけます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:28-30)

🪷やさしい解説

バプテスマのヨハネが牢に捕らえられたとき、彼の弟子たちはイエスのもとに遣わされました。
その後、イエスは信じなかった町々――コラジン、ベツサイダ、カペナウム――を厳しく責めます。これらの町は、イエスの奇跡を目の当たりにしながら、悔い改めることをしなかったからです。

けれどその直後、イエスは天の父をほめたたえ、そして有名な言葉を語られます。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

(マタイ11:28–30 口語訳)

この聖句は、イエスさまの「慰め」と「弟子としての歩み」への招きを、同時に伝えています。

まず、イエスさまは「重荷を負って苦労している者」を招いておられます。
これは、目に見える重労働や悩みだけでなく、心の中の不安、罪の意識、自分ではどうにもできない痛みなど――魂の重荷も含んでいます。

そしてイエスさまは、「休ませてあげよう」と語られますが、それは単なる「気休め」ではありません。
続く言葉で、イエスはこうおっしゃいます。

「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」

「くびき」とは、牛が農作業で使う木の道具で、2頭の牛が一緒に畑を耕すためのものです。
イエスのくびきとは、イエスとともに歩むことを意味します。
それは、ひとりで人生の重荷を背負うのではなく、イエスに従う中で、心が自由になり、魂に真の安らぎを得ていく道なのです。

そして、イエスさまはご自身を「柔和で心のへりくだった者」と紹介されます。
支配的な指導者ではなく、寄り添い、支え、共に歩まれる主なのです。
そのようなお方のくびきは「負いやすく」、荷は「軽い」と語られています。

信仰生活とは、重く苦しいものではなく、本来、イエスとともに歩む中で魂にやすらぎを見出していくもの。
この聖句は、「信じる」とは生き方そのものをゆだねていくことであり、その先にこそ、ほんとうの休みがあるということを、私たちに教えてくれているのです。

🌼こどもたちへのメッセージ

イエスさまは、「つかれている人は わたしのところに おいで」と いってくださいます。
でも、それだけじゃ ないんだよ。

イエスさまは、「いっしょに くびきを せおって、わたしから まなびなさい」とも おっしゃいました。

くびきっていうのは、ふたりで いっしょに はたらく ときに つかう どうぐのこと。
イエスさまは、ぼくたち・わたしたちと いっしょに あるいてくださるの。

じぶんひとりじゃないって、すごく あんしんだよね。
かなしいときも、こまったときも、イエスさまは いっしょにいて、やすませてくださいます。


🎚️ 信仰のことば

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:28-30)


疲れたとき、さびしいとき、どんな自分であっても――イエスさまは私たちを招き、やすらぎを与えてくださいます。


🖼 原画アイキャッチ情報

【代替テキスト】
人々の後ろ姿が描かれた群衆の前に、イエス・キリストが真剣な表情で群衆の前に立ってる。背景には弟子たちも描かれ、イエスの言葉に静かに耳を傾けている様子。場面は、ヨハネの弟子がイエスのもとを訪ねた後、信じようとしない町々を非難し、父なる神をほめたたえ、「わたしのところに来なさい」と語られる場面を象徴している。

【キャプション】
信じない町々を嘆きつつも、すべての重荷を負う者に向けて――イエスは今日も、やさしく語りかけます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:28-30)

📌原画には、パブリックドメイン口語訳が含まれています。


🎨 らけるまの創作メモ|招かれているのに気づけない日

この絵を描いたとき、思い浮かべていたのは「本当は招かれているのに、それに気づけない人」の姿でした。
信じない町の人々は、イエスさまのまなざしの先にいながら、背中を向けてしまったのかもしれません。
それでも、イエスさまの両手は広がったまま。
わたしのところに来なさい、と、今も変わらぬ声で呼んでおられる姿を、色と光の中で表現したいと思いました。


📝この記事のまとめ

  • マタイ11章は、ヨハネの弟子の訪問の後に語られた内容
  • 信じなかった町々への厳しい言葉
  • 父なる神への賛美と感謝
  • 有名な「わたしのところに来なさい」という招きの言葉
  • イラストは、背を向ける人々と、迎え入れるイエスを象徴的に描いたもの

🕊️ 結びの祈り

主イエスさま、
あなたが今日も、私たち一人ひとりを招いてくださっていることを感謝します。
信じることができない日も、疑いの中にいるときも、あなたのまなざしと御声は変わりません。
どうか、このメッセージを読むすべての方の心に、あなたの平安と慰めが届きますように。
重荷を負っている人に、休みがありますように。
あなたのもとに歩み寄る力が与えられますように。
アーメン。


🔔 次回の予告

次回は、ルカ7章――
「罪深い女がイエスの足に香油を塗る」感動の場面をご一緒に味わいます。
人々の非難を越えて、涙と愛をもってイエスに近づいた彼女の姿に、赦しと救いの光があらわれます。
「あなたの信仰があなたを救ったのです」というイエスさまの言葉とともに、
愛と赦しの本質にふれてゆきましょう。


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