🌱はじめに
静かな道のほとりで、一人の盲人に目を留められたイエスさま。弟子たちは「だれが罪を犯したのか」と問いましたが、イエスは「神のみわざが現れるため」と応えます。今日ご紹介するのは、ヨハネの福音書第9章――生まれつき目の見えなかった人とイエスさまとの出会い、そしてそこに現れる信仰と光の物語です。
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前回の記事「永遠の光」はこちらからご覧いただけます
📝この記事を読むとわかること
- ヨハネ9章の全体の流れと登場人物
- イエスが盲人をいやした意味
- パリサイ人とのやり取りに表れる信仰と頑なさ
- 現代の私たちへのメッセージ
📖 この箇所の文脈|ヨハネによる福音書 第9章
ヨハネ8章では、イエスとユダヤ人たちの間に激しい対話があり、「わたしは世の光である」という宣言がなされます。9章では、その光が実際に一人の人の目を開く奇跡として現れます。この物語は単なる癒しではなく、信じる者と信じない者、光と闇の対比を通して、信仰の本質に迫る深い章です。
🖼️ 原画:『安息日に生まれつきの盲人をいやす』(らけるま作)





🪷やさしい解説
イエスさまは道を歩いているときに、生まれつき目が見えない人に出会いました。弟子たちはその人の状態を「罪の結果」として捉えていましたが、イエスさまはそうではないと教えます。むしろ、その人を通して神のわざが現れるのだと――。
イエスは地面の土に唾をして泥を作り、その泥を盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。彼がそのとおりにすると、目が見えるようになったのです。長い間、光を見ることがなかった彼の目に、初めて世界の色と形が映りました。
しかしこの奇跡は、周囲の人々を驚かせただけでなく、宗教指導者たちの間に波紋を広げます。特に、「安息日にいやす」という行為が律法違反とされたため、癒された本人も、家族も、問いただされることになりました。
彼は何度も同じ問いを受けても、「私は目が見えるようになった」と証しします。中でもパリサイ人たちは、彼の両親をも呼び出して「本当に盲人だったのか」「どうして見えるようになったのか」と尋問しました。
両親は恐れながらも、「たしかにこの子は盲人でした」と答えますが、それ以上のことは語ろうとせず、息子に聞いてくださいと答えます。このやり取りは、当時の社会の圧力と信仰の勇気の対比を物語っています。
そして最後にはイエスと再び出会い、彼はこう言います。「主よ、信じます」と。
この告白は、目が開かれただけでなく、心の目も開かれたことを示しています。彼の信仰と応答は、今を生きる私たちにも深い示唆を与えてくれます。
🌼こどもたちへのメッセージ
イエスさまは、ひとりひとりを見てくださいます。目が見えない人も、こまっている人も、みんな神さまの大切な子どもです。イエスさまは、やさしく手をのばして、私たちの心にひかりをともしてくださいますよ。
🎚️ 信仰のことば
「主よ、信じます」──ヨハネ9:38
🖼 原画アイキャッチ情報
🖼️ 画像1:イエス、盲人に出会い癒しを与える(ヨハネ9:1–7)
- 代替テキスト(alt):
「イエスが生まれつきの盲人をいやす場面。弟子たちとともに歩きながら盲人を見つめ、やがて彼の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように導く様子が描かれている。」 - キャプション:
生まれつき目の見えなかった人に、イエスは神のわざを現すためのいやしをもたらしました。弟子たちの問いかけに応える形で、神の光がどのように人に届くのかが示される、ヨハネの福音書9章の場面です。
🖼️ 画像2:盲人の癒しをめぐる問答(ヨハネ9:8–14)
- 代替テキスト(alt):
「見えるようになった元・盲人が、パリサイ人たちから問いただされている様子。驚きと疑いの表情が交差し、癒しの真実をめぐる対話が展開している。」 - キャプション:
イエスによって目が開かれた盲人が、ユダヤの指導者たちから厳しく問い詰められます。神のわざが現れたことに、素直に喜べない人々の姿が浮き彫りにされる、ヨハネの福音書9章の一場面です。
🖼️ 画像3:盲人の両親が呼び出され尋問される(ヨハネ9:15–22)
- 代替テキスト(alt):
パリサイ人たちに呼び出された盲人の両親が、宗教指導者の前で緊張しながら証言している場面。両親の不安と周囲の視線が交差し、信仰をめぐる社会的な葛藤が描かれている。 - キャプション:
イエスによって癒された盲人の両親が、パリサイ人たちに尋問される場面です。奇跡を証言することの重みと、信仰に対する社会の目が交錯するヨハネの福音書9章の一場面です。
🖼️ 画像4:癒された人の力強い証言(ヨハネ9:23–33)
- 代替テキスト(alt):
「癒された元・盲人が、神のわざによって見えるようになったと語り、パリサイ人たちに力強く証ししている場面。信仰の確信と宗教指導者たちとの緊張が表れている。」 - キャプション:
イエスによって癒された盲人の両親が、パリサイ人たちに尋問される場面です。奇跡を証言することの重みと、信仰に対する社会の目が交錯するヨハネの福音書9章の一場面です。
🖼️ 画像5:見える者と見えない者(ヨハネ9:3–41)
- 代替テキスト(alt):
「元・盲人が地にひれ伏してイエスを礼拝し、白い衣をまとったパリサイ人を責めている場面。信仰と応答の静かな頂点を描いている。」 - キャプション:
イエスを信じた盲人が礼拝の姿勢をとる中、イエスは「見えるようになるために来た」と語ります。信じる者と信じない者との違いを語る最後のやりとりに、光と闇の対比が浮かび上がります。
📌原画には、パブリックドメイン口語訳が含まれています。
https://j-bible.jimdofree.com/
🎨 らけるまの創作メモ|「信じます」と言った日
この絵を描いたとき、わたしの心にも「信じます」という祈りがありました。見えないことを責めるのではなく、見えるようになったことを喜ぶ――そんな神さまのまなざしを描きたくて、イエスさまの目を何度も塗り直しました。最後にひれ伏すその姿は、だれよりも自由で、だれよりも光の中にいるように思えたのです。
📝この記事のまとめ
- イエスは、生まれつきの盲人をいやされた
- その奇跡は、神のわざを現すものであった
- 周囲の人々はその出来事をどう受け止めたかが描かれている
- 盲人は癒されただけでなく、信仰を告白した
- この物語は、わたしたち自身の“見える目”を問いかける
🕊️ 結びの祈り
主イエスさま、
あなたが目をとめられた盲人のように、
わたしたちの心の目も、どうか開いてください。
見えないことで悩む日も、
あなたがそばにいてくださることを、忘れずに歩めますように。
「信じます」と祈るすべての人に、
光と平安が注がれますように。
アーメン。
🔔 次回の予告
次回は、「羊と羊の牧者」ヨハネ10・1-21
やさしい声で呼ばれる羊たちの物語をご一緒にたどりましょう。
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