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🌱はじめに
イエス様が山から下りてこられたとき、一人の父親が息子の癒しを求めて近づいてきました。
その子は悪霊に苦しめられ、何度も火や水の中に倒れ込み、命の危険さえあったのです。
弟子たちは癒すことができず、イエス様は「信仰のない時代だ」と深く嘆かれました――。
この出来事から、わたしたちは「信仰のちから」について、静かに心を向けてみましょう。
✨ イエスさまの足跡をたどる旅へ ✨
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前回の記事「栄光と苦難を担うイエス」はこちらからご覧いただけます
📝この記事を読むとわかること
- マタイ17:14–21の背景と要点
- 「からし種ほどの信仰」の意味
- 祈りと断食の大切さ
- イエス様の嘆きに込められた愛
🖼️原画:『悪霊につかれた少年をいやす』(らけるま作)

🪷やさしい解説
この出来事は、イエス様が山の上で「栄光の姿」に変わられた後、弟子たちとともに山を下ってきた直後に起きたものです。まさに天と地の対比――神の臨在に満ちた山上と、混乱と苦しみが渦巻く人々の現実世界が交差する場面なのです。
1. 父親の訴えと弟子たちの限界(14–16節)
ひとりの父親が、人ごみの中からイエス様のもとに駆け寄ります。
「主よ、わたしの子をあわれんでください」。彼の声は切実でした。息子はてんかんを患っており(原語では「月の病」とも訳される)、突発的に倒れ、火や水に落ちる危険がある状態でした。
父親は息子をイエスの弟子たちのもとに連れていきましたが、彼らには癒すことができませんでした。弟子たちは、すでに他の箇所で悪霊を追い出す権威を授けられていたはずでした(マタイ10:1)。けれどもこのとき、彼らの信仰と理解はまだ未熟だったのです。
弟子たちの限界は、私たち自身の姿とも重なります。熱心に祈っても、期待していた答えが得られないことがあります。自分の力や経験だけに頼ろうとするとき、私たちも同じように、神の力に触れられなくなってしまうのかもしれません。
2. イエス様の嘆きと、少年の癒し(17–18節)
この時、イエス様は深く嘆かれました。
「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。」
この言葉には、弟子たちへの失望だけでなく、当時の人々全体に対する、神の愛と義の眼差しが込められています。イエス様は常に、奇跡を通してではなく、信仰によって神を求める心を望んでおられました。
そして、イエス様が「ここに子を連れてきなさい」と言われ、少年が差し出されると、イエス様はその子の中にいた悪霊を厳しく叱られました。すると悪霊は出ていき、少年はその場で癒されたのです。
これは、神の力が人の不信仰さえも超えて働かれることを表しています。父親がイエス様に心からの信頼をもって願ったように、わたしたちもまた、限界を感じるときこそ、イエス様に近づくべきなのです。
3. 弟子たちへの教えと「からし種の信仰」(19–21節)
人々が去った後、弟子たちはそっとイエス様に尋ねました。
「なぜ私たちは、あの悪霊を追い出せなかったのでしょうか?」
イエス様の答えは明確です。
「あなたがたの信仰が足りないからである。」
けれどもイエス様は責めるだけでなく、「ほんのわずかな信仰でも、神の力を動かすことができる」という真理を語られました。
「からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」
ここで語られている「山」は、実際の山ではなく、人間には動かせないような問題や困難の象徴です。信仰があるなら、どれほど不可能に思える状況でも、神の御手が動かれる――それがイエス様のメッセージでした。
さらに21節(多くの写本には含まれませんが、重要な教えとして受け継がれています)では、
「このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」
と記されています。祈りと断食は、私たちの心を神に集中させ、神の力により深く結びつく手段です。
信仰は言葉や思いだけでなく、実際の祈りと献身的な行動を通して育まれていくのです。
この箇所からの励まし
この物語を読むと、「自分にはそんな信仰がない」「山を動かすなんて無理」と思うかもしれません。
けれどもイエス様は、「からし種ほど」でいいと言われました。
ほんのわずかでも、神に向かう心があるなら、神はそれを尊く受け取ってくださるのです。
弟子たちの失敗も、決して無駄ではありませんでした。その問いかけがあったからこそ、信仰についての深い学びと成長が与えられたのです。
わたしたちの不完全さの中にも、神の働きは確かに始まっていきます。
🌼こどもたちへのメッセージ
イエスさまは、どんなにつらい時も、わたしたちのそばにいてくださいます。
「しんじるこころ」は目に見えないけれど、とても大きなちからをもっています。
すこしでもいいから、イエスさまを信じて、いっしょにお祈りしてみましょうね。
🎚️信仰のことば
「もし、からし種ほどの信仰があるなら…どんなことでもできないことはありません」
(マタイ17:20)
🖼原画アイキャッチ情報
【代替テキスト】
イエスが悪霊につかれた少年を癒す場面を描いたイラスト。地面に倒れ苦しむ少年、その父親、弟子たち、イエスと人々が描かれ、マタイ17章14〜21節の情景をあらわしている。
【キャプション】
イエスは、弟子たちが癒せなかった少年に手を差し伸べ、信仰の大切さと祈りの力を教えてくださいました。(マタイ17:14–21)
📌原画には、パブリックドメイン口語訳が含まれています。
https://j-bible.jimdofree.com/
🎨らけるまの創作メモ|信じるということを描こうとした日
この絵を描きながら、「ほんとうに信じるってどういうことだろう」と何度も問い直しました。
ただ願うだけではなく、神さまにゆだねること。
子どもが安心して手を伸ばすように、信じて、まかせて、祈ること――。
そんな「からし種」のような、ちいさな信仰の輝きを、色と線に込めて描きました。
📝この記事のまとめ
- イエス様は悪霊に苦しむ少年をいやされました。
- 弟子たちができなかったのは「信仰の薄さ」のためでした。
- からし種ほどの信仰があれば、山を動かす力があると教えられました。
- 真の信仰には、祈りと断食という深い交わりが必要です。
- 信仰とは、神にすべてをゆだねることです。
🕊️結びの祈り
主イエスさま、
信じきれない弱さをかかえる私たちに、
「からし種ほどの信仰でもいい」と言ってくださるあなたのやさしさに、心から感謝します。
どうか今日も、あなたに信頼する心を育んでください。
困難の中でも、あなたを見上げ、
祈り、ゆだねる歩みを続けられますように。
あなたの御名によって祈ります。アーメン。
🔔次回の予告
次回は、「死とよみがえりの二度目の予告」(マタイ17:22–23)をご紹介します。
イエス様が弟子たちに語られた、十字架の意味に静かに耳を傾けてみましょう。
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