救いとは?――罪の赦しがもたらす真の自由

扉に「赦し」と書かれた場所で、祈る男性に向かってイエス・キリストが手を差し伸べている。救いと赦しの招きを描いた優しいイラスト。 終末の備え

🌱はじめに

私たちは日々の暮らしの中で、「救い」という言葉を聞くことがあるかもしれません。けれど、それが自分にとって本当に必要なものだと感じる人は、少ないのかもしれません。

けれど、聖書は語ります――「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)と。

それは、何か大きな過ちを犯した人だけでなく、すべての人が神の前に立ったとき、真実に向き合わねばならないという意味でもあります。

このページでは、「救いとはなにか」「罪とは」「赦されるとはどういうことか」を、やさしくご一緒に考えていきます。


📝この記事を読むとわかること

  • 聖書が語る「罪」とはなにか
  • なぜ赦しが必要なのか
  • 救いとはどのような贈り物なのか
  • 今、だれでも救いにあずかる方法

🖼️ 原画:『赦しの扉』(らけるま作)


暗い扉の前にひとり立つ人物に、やさしい光が差し込み、扉が少し開いている様子を描いた原画。赦しと希望の光を象徴している。
『赦しの扉』――閉ざされた心にも、救いの光は届きます。過去にとらわれ、暗闇の中にいるように感じるときも、主の光がやさしく扉を開いてくださるのです。

🪷やさしい解説

聖書が語る「罪」とは、単なる法律違反や道徳的な誤りではありません。

神との関係が断たれている状態――それが「罪」です。

それは「自分中心」で生きること、神を知らず、神に頼らず、自分の思いで歩んでしまうこと。

たとえば、小さな幼子でも、おなかがすけば泣き、おむつが濡れれば怒り、思い通りにならなければだだをこねます。3歳ごろになると、親に隠れて嘘をつくこともあります。兄弟げんかをして、相手をたたいたり、おもちゃを奪ったりすることもあります。

これらは誰かが教えたわけではなく、人が生まれながらにして持つ「自分中心の性質」、すなわち原罪の現れです。

成長すれば、いじめたり、他人を羨んだり、心で人を憎んだり、「あの人さえいなければ」と思ってしまうこともあります。

大人でも、「自分は嘘などつかない」と言いながら、「嘘も方便」と自分を正当化して人を傷つけることがあります。人の物を欲しがる、欲望にとらわれる――これらは、モーセの十戒にも禁じられている罪です。

私たちは皆、神の聖さの前では、罪をもって生きている存在なのです。

しかし、神はそんな私たちを見捨てず、「ひとり子イエス・キリスト」をこの地に送ってくださいました。

聖書は福音をこのように語ります:

「キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死なれたこと、 葬られたこと、そして聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえられたこと」(1コリント15:3–4)

救いとは、この福音――イエス・キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえられたという、三つの出来事すべてを信じることによって与えられます。

どれか一つでも欠けていては、救いは成り立ちません。

「死」は罪の代価、「葬り」は完全な死の証、「復活」は永遠のいのちの勝利――これらがすべてあってこそ、救いの完成です。

この福音を心から信じて受け取るとき、私たちの罪は赦され、神との関係が回復されるのです。

それは、何かをがんばって得るものではなく、信じて受け取る“プレゼント”です。


🌼こどもたちへのメッセージ

イエスさまは、どんな人のことも大切に思っておられます。

たとえ、まちがいをしてしまったことがあっても、「ごめんなさい」を言う心と、イエスさまを信じる心があれば、すぐにゆるしてくださいます。

イエスさまは、いつもあなたのそばにいて、「だいじょうぶだよ。あなたのことをゆるすよ」と言ってくださっています。


⚫ 信仰のことば

「まことに、あなたに言います。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 ――ルカの福音書23:43

十字架にかけられた罪人にさえ、主は「ともにいる」と言われました。

それは、どんなに遠くにいるように思える人にも、救いが届くという約束です。


✨塀の中にも届く救いの光

主はいつも扉の向こう側で待っておられますが、その扉の取っ手は私たちの側にしかない。

この真理を思うとき、イエスさまの言葉が心に響きます:

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中にはいって、彼とともに食事をし、彼もまたわたしとともに食事をするであろう。」 ――黙示録3:20(口語訳)

赦しの扉は、無理にこじ開けられることはありません。 けれど、自分の意志で、震える手でもそっとそのノブに手をかけるなら―― そこにはいつも、変わらない主の招きと、あたたかな光があります。

この世で最も「救い」を近くに感じているのは、もしかしたら、塀の中にいる人たちかもしれません。

過ちを犯し、自由を奪われた場所で、自分の罪と向き合い、「赦されたい」と願う心が育まれるからです。

けれど本当は、私たちの多くもまた、自分で気づかない「罪の壁」の中にいるのかもしれません。

救いとは、そこからの“真の自由”です。罪を赦され、神とともに生きる新しい道が開かれるのです。


🖼️ 原画アイキャッチ情報

【代替テキスト】 暗い扉の前にひとり立つ人物に、やさしい光が差し込み、扉が少し開いている様子を描いた原画。赦しと希望の光を象徴している。

【キャプション】 『赦しの扉』――閉ざされた心にも、救いの光は届きます。過去にとらわれ、暗闇の中にいるように感じるときも、主の光がやさしく扉を開いてくださるのです。


🎨 らけるまの創作メモ|扉が開かれる時

この原画を描くとき、「自分なんて赦されるはずがない」と思っていた日々のことを思い出しました。

でも、主は扉の向こうでずっと待っておられました。私が心を開こうとするより前から、主の光はそこに差し込んでいたのです。

この絵は、「あなたにも赦しの扉があるよ」と、誰かにそっと伝えたくて描いた一枚です。


📝この記事のまとめ

  • 聖書が語る「罪」とは、神との関係が断たれている状態
  • 罪は誰にでもあり、幼い子どもにも現れる
  • 救いとは、罪が赦され、神との関係が回復されること
  • 救いはイエス・キリストの死、葬り、復活を信じることによって与えられる
  • それは努力で得るのではなく、信じて受け取る贈り物
  • 誰でも、どこにいても、その救いにあずかることができる

❓Q&A:救いと罪について

Q1:自分はそんなに悪いことをしていないのに、なぜ罪があるの?

A:聖書は、「すべての人は罪を犯した」と語ります。それは、神と共に歩まず、自分中心で生きてしまう心の状態を言っています。小さな子どもであっても、嘘をついたり、怒ったり、欲しがったりする心は、生まれながらに持つ「罪の性質」のあらわれです。

Q2:どうすれば救われますか?

A:イエス・キリストを信じ、「わたしの罪を赦してください」と祈るとき、救いが与えられます。特に、キリストが死に、葬られ、復活されたという福音の三つをすべて信じることが大切です。

Q3:もう遅いのではないですか?

A:決して遅すぎることはありません。イエスさまは、十字架で死を迎える直前の罪人にも、「あなたはわたしとともにいる」と言われました。

Q4:信じても罪を犯してしまうことがあります。

A:私たちは弱い存在です。でも、悔い改めて主のもとに戻るとき、いつでも赦される恵みがあります。


🕊️ 結びの祈り

主よ―― いまこの記事を読んでくださっている方の心に、あなたの光が差し込みますように。

罪の重さに押しつぶされそうな方に、あなたの赦しの言葉が届きますように。

だれもが「わたしなんて…」と心を閉ざすことなく、「わたしのための救いだ」と気づくことができますように。

イエスさま、どうかその扉を今、開いてください。 アーメン。


🔔 次回の予告

「携挙に備える――目を覚ましている者たちへ」


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✨感謝のことば
最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
あなたの心に、今日も小さな光が灯りますように――
またいつでもお越しくださいね🕊️
終末の備え
著作権
本作品は、聖書に忠実に、神様との対話の中で心を込めて描いた原画です。文化庁に著作権登録済みであり、無断使用・転載はご遠慮くださいますようお願いいたします。 This artwork was prayerfully created in faithful reflection of the Bible and through a personal dialogue with God. It is registered with the Agency for Cultural Affairs, Japan. Unauthorized use or reproduction is not permitted.
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