☘️はじめに
かつての私は、「宗教」という言葉に対して、混ざりけな感情を抱いていました。
信じるなんてこわい。ルールに約束されたり、自分らしさを失ったりしそうだなど、どこか「自分を持っていてはいけない」ような抵抗感があったのです。
その上に「キリスト教」というだけで、なんだか「よその国のもの」「自分には関係ない」と感じてしまっていたのです。
💬私の心の証
「宗教って、ただしさを求められるものでしょ?」
学校でもニュースでも見かける宗教は、「正しくあれ」「従え」というメッセージばかり。
間違えたら返ってこられない、この世には無敵でありたい人たちが続けるためのルールのように思えてしまっていました。
「信じたら、自由を失うんじゃないかな…」
これも、一種の成功者思考のようなもので、信仰とは「なんでもかんでもしんじる人たち」、「他人の意見に従うしもべ」みたいな、自分を持てない人のように劣等感を抱いていました。
けれど、何かが当たらない
どんなに頑張っても、どんなにのし上げられても、どこかに空しさが残る。
自分を信じて生きるのは美しいけれど、どこかで実は「自分じゃたりない」って気づいている。
そんな私に、イエスさまの言葉は一緒けんめいの光でした。
「真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ8:32)
イエスさまの十字架の贖いは、罪や言い訳のこない自分を身体をもって救い出してくれました。
私たちは、しばしば知らずにサタンの奴隷のような生き方をしています。自分を心の中心にすえる世の教えは、いつの間にか何かに耐えているような生き方になります。
しかし、イエスさまの愛は、貴い価ないのちを止めて、救い出し、真に自由な者として歩む道を開いてくださるのです。
🌌Q&A|宗教と信仰の違い
Q1:「宗教」と「信仰」は何が違うの?
A:
宗教は、ルールや約束、会衆の結びつきなど「人から神に近づこうとする行為」です。
信仰は、神が人に近づいてくださった愛に応える「心の姿勢」です。
Q2:「キリスト教は宗教じゃないの?」
A:
歴史や経典をもち、会衆も持つ意味では、もちろん宗教です。
でも中心にあるのは「約束を守ること」ではなく、「神との関係に生きること」。
それは宗教を超えた、真の信仰の道です。
Q3:信じると自由を失う?
A:
むしろ逆です。
真に信じるとき、人は初めて「罪の極々やさしい奴隷」から解放されます。
それは「もう他人の評価に振り回されなくてもいい」「自分の身信が社会のランクで決まるものじゃない」という、真に自由な思いです。
Q4:なぜ、わざわざ信じる必要があるの?
A:
それは、私たちが、本当の愛の中で生きるためです。
神さまの愛は、気付きにくくて、他の事で埋もれてしまいがちだけれど、わたしたちは「愛されるために生まれ」、「愛すために生きる」ように作られました。
その真実を知ることが、真の自由に至る道なのです。
Q5:本当の救いを受けるには、何が必要なの?
A:
それはまず、「自分は罪ある者だ」と認めること(自己認罪)です。
「自分はそんなに悪くない」「他人に迷惑をかけていない」と思っている間は、救いの必要性が見えてきません。
でも、神の光のもとに立ったとき、私たちは誰もが神の栄光に達していない(ローマ3:23)と気づかされます。
人はみな、アダムとエバの罪、つまり神への反抗の性質(原罪)をもって生まれてきます。
それは人類全体に及ぶ霊的な遺伝であり、この罪あるままでは聖なる神の国には入ることができません。
けれど、ただひとり、罪のないお方――神ご自身であるイエス・キリストだけが、その原罪を赦すことができるのです。
自己認罪は、責められることではなく、愛と救いに向かう第一歩なのです。
🕊️結びの祈り
主よ、 あなたの真理の光が、私の心のかたくなさと恐れを照らしてくださいました。 宗教ではなく、あなたとの関係―― 恵みによる信仰の道へと私を導いてくださったことを心から感謝します。
すべての人が、自分の中にある罪の性質に気づき、 イエス・キリストの十字架による赦しと、 聖霊による新しいいのちに生きることができますように。
この証を読んだ一人ひとりが、 あなたの招きに気づき、自由と救いを受け取ることができますように。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。 アーメン。
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